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10件

2018/04/02
ホテル・ナポレオン(フランス・マントン)
コートダジュール最東端の小さな町マントンは「フランスの真珠」とも呼ばれるリゾート地。1880年代から英国やロシアの貴族やブルジョワの間で大人気となり、ヴィクトリア女王をはじめ、彫刻家のロダンや作曲家のリスト等もここを訪れ、マントンにはゴージャスなホテルや別荘が次々と建設されていった。「ホテル・ナポレオン」は、イタリアとの国境に通じる海岸通りを隔ててガラヴァン湾に臨み、夏にはマリンスポーツを楽しむリゾート客で賑わう。ホテルのエントランスにある4ツ星のサインが、星でなく蜜蜂形でユーモラスだが、そういえば蜜蜂は皇帝ナポレオンの紋章でもあったなあ、とホテルの名前からの遊び心と察した。
ホテルは1962年の創業で、5年程前に地中海の光に映える爽やかなホワイト&ブルーを基調にして全面改装され、コンテンポラリーなデザイン&アートホテルに変貌する。前庭の屋外温水プールも新しくなり、エコロジカルなソーラーヒーティングシステムとなった。インテリアはパリのジャン=フィリップ・ヌエルのスタジオが担当し、現在はインテリア事務所WeDesignを主宰するパスカル・ドゥイラールがプロジェクトマネージャーを務めた。
ホテルのまだ若いオーナーは、イギリス人のマシュー・ライキアマン。氏はイギリスからフランスに渡り、モダンな家具・インテリア雑貨のブランド「アビタ」(Habitat)を展開し成功させたマイケル&マーガレット・ライキアマン夫妻を両親に持つ。夫妻はマントンの丘の上にある世界的にもユニークなデザインのコロンビエール庭園に惚れ込み、5年の歳月と400万ユーロを投資して、荒廃した歴史的庭園の再生に尽力する。庭園は「庭はそれ自身の中に宇宙全体を持つ」というフェルディナン・バックの思想が実現されたもの。バックはメキシコの巨匠建築家ルイス・バラガンにも影響を与えたマルチクリエーターだった。
ライキアマンは両親から多くを学び、このホテルをつくり上げた。両親のコロンビエール庭園修復を手掛けたアルノー・モリエールとエリック・オサールが、ホテル・ナポレオンの独創的な憩いの庭をクリエートしてくれた。ブラジルが生んだ20世紀の革新的ランドスケープアーキテクト、ロベルト・ブーレ・マルクスに敬意を表したデザインで、2人の今日のガーデンデザインにかける情熱が、小さな亜熱帯性植物の生える庭にぎゅっと詰まっている。
この庭に面してガラス張りの空間が、朝食ルームでもある「ビエンナーレ・ラウンジ」だ。ビエンナーレと聞いてマントンと一体どういう関係が?と最初は頭を傾げてしまったのだが、1951年にマントンでフランス初の「絵画ビエンナーレ」が開かれていたのだった。第1回はデュフィ、第2回はルオー、第3回はマチスに捧げられていたという。ラウンジには、マントンとアートとの繋がりを今に伝え残すヴィンテージのオリジナルポスターのコレクションが展示される。
マントンはかつて多くのアーティストに愛された街。ホテル・ナポレオンは、そのマントンに魅せられたアーティスト達を愛するホテルだ。詩、絵画、映画、工芸デザインと、創造の分野を越えて活躍したフランスのマルチアーティスト、ジャン・コクトーもその1人、マントンで晩年を過ごし、自らの構想で自身の美術館をマントンの古い要塞に実現した。客室階へのエレベーターの扉が開くと、狭い階段室がまるで壮大なコクトー・ギャラリーの様で、壁のグラフィックデザインもコクトー独特の造形言語をアレンジしてある。オリジナル建築の1960年代の階段の手摺デザインも味わいがある。エレベーターで最上階まで行って階段を下りながら、ゆっくり時間をかけて鑑賞したい。コクトーだけでなく、他のアーティストの作品にも出会える。
マントンの市庁舎には、コクトーが手掛けた「結婚の間」が残る。世界でここにしかない総合芸術空間で、永遠の愛を誓うことができるのだ。1958年の建設当時はマントン市民のためだけであっただろうが、今では外国からの新郎新婦も少なくない。コクトーの芸術の中で結婚した後は、コクトーの芸術に囲まれるこのホテルのスイートに泊まるのもいい記念になりそうだ。ホテルのルーフトップ・スイートは1つがコクトー、もう1つはイギリスの著名な現代画家グラハム・サザーランドへのオマージュになっている。私達はやはりジャン・コクトーの方を選んで予約した。この日に見学したばかりの市庁舎の挙式場デザインのための習作や、様々なリトグラフ、国境付近での映画『オルフェの遺言』の撮影現場の写真(ルシアン・クラーグ作)に囲まれ、ベッドに横になるとコクトーに見つめられている気分にもなる。部屋の収納家具の扉の取手といい、ディテールにもコクトー風なデザインが顔を出す。
ホテルの44室はマウンテンビュー、シービュー、トロピカルガーデンビューの3パターンがある。その中でもスイートからのマントン旧市街とガラヴァン湾への眺望がやはり格別だ。広いテラスにはテーブル&椅子のセットだけでなく、デッキチェアも用意される。白いデッキチェアに白のタオルではなく、レモンの街マントンにぴったりなレモンイエローのタオルがさり気なく置いてあり、テラスのカラーアクセントになっている。スイートのバスタブからテラスの向こうに海を眺められるのも趣があっていい。夜景が素晴らしかったので、食事に出ると夜景を楽しむ時間が減ってしまうから、夕食代わりにワインを頼んで月見する。マントンにはじまり、最終日のニースまでコートダジュール5泊の旅だったけど、思い返すとホテルからの景色の美しさに釘付けになって満腹になっていたのか、毎晩ワインだけで夕飯を全然食べていなかったことに、後で気がついたのだった。
フランス

2017/09/01
レルミタージュ・ガントワ オートグラフ・コレクション(フランス・リール)
ベルギーとの国境に近い、フランスの北の玄関都市リール。かつて中世にはフランドル領だった歴史と、伝統が今も残るノール=パ・ド・カレー地方の首府だ。そしてリール宮殿美術館(パレ・デ・ボザール)は、パリのルーヴル美術館に次ぐ、フランス第2の珠玉のヨーロッパ美術コレクションを誇る。この美術館見学にたっぷり時間をかけて楽しみたくて、一番利便性がよく、且つ魅力あるホテルを探して辿り着いたのが、この5ツ星のブティックホテル「レルミタージュ・ガントワ」だった。美術館までホテルから歩いて10分もかからない。多彩な個性を発揮し、新鮮で独創性に満ちた、インディペンデントホテルが名を連ねるマリオットホテルズの「オートグラフ・コレクション」に加盟している。
レルミタージュは、その建築空間の隅々から過去500年に渡る歴史が薫り、単にラグジュアリーホテルなだけでなく、泊まれる歴史博物館という印象だ。まさにタイムトンネルを抜けて探検する感覚で館内を見学すると、オリジナルに忠実に修復された部分と、コンテンポラリーに改装デザインされた部分との緊張感ある美しいハーモニーに感服してしまう。時の流れがマテリアルに染み込んでいる。
ホテルのフランドル様式のゴシック建築は、元々1462年に創設されたガントワという名のホスピス(施療院)であった。この施設を立ち上げたジャン・ド・ラ・カンブ(Jean de la Cambe)の愛称がガントワであった。中世ヨーロッパにおいて巡礼者が休憩宿泊できた教会、そして病気で旅を続けることができぬ者のケアもする慈善施設となり、看護にあたる聖職者の献身が、ホスピタリティの概念の基本となったわけである。ホテルの前身は、1995年まで終末期ケアのホスピスであった。そして大改装事業が敢行され、2003年にホテルとして生まれ変わる。15世紀のホスピス空間から、21世紀のホスピタリティ空間が開発された。
建築家ユベール・マース(Hubert Maes)やエリック・ティリオン(Eric Thirion)が率いるリールの設計事務所(MAES Architectes Urbanistes)が、修復・改修も含め、総合的建築デザインを手掛けた。リールを本拠地にするこの建築家集団は「アーバンランドスケープは、街の住民のニーズによって常に進化し、常に変化していく。歴史ある建物のユニークな性格をいかに保存し、その機能を現代のニーズに適応させて、都市の変化に組み込むかが課題だ」と考えている。都市の色あせた地区に新しい息吹をもたらし、ランドマークとなり得る荒廃してしまった歴史的建築に、新しい重要な役割を見いだすプロジェクトを得意とする。
そして更に新しく加わった施設が、ゴシックのフォルムを現代に解釈し直したアネックス「ザ・スパ」。青の洞窟の中で泳いでいるような神秘的プールもあり、ホテルのアーバンリゾート感を高める。錆びた金属板に、抽象的なグラフィックのような孔を開けたファサードのスカルプチャー的建築だ。
施設には、今も都市の喧噪を忘れベンチに腰掛け、本でも読みたくなる緑の中庭が複数残されている。そのなかで最も規模の大きい中庭がガラス屋根に覆われ、2層吹き抜けの広く開放感あふれるアトリウムのウィンタガーデン的バー空間に大変貌した。ホテルの心臓部、ミーティングポイントで昼はカフェ、夜はピアノバーになる。滞在時には、ハンドボール欧州選手権大会の開幕レセプションで、スポーティーに華やいでいた。
ハンドボール連盟のディナー会場にアレンジされたのは、その昔は病人ホールと呼ばれた施療院。15世紀のゴシック様式建築で、壁下層には18世紀のリール産のタイルが残る。ステンドグラスから差し込む光の色も美しい。アトリウムに隣接する礼拝堂(1666年建設)が、今は神聖な雰囲気を漂わせるサロンで、結婚式会場としても人気がある。昔、ホスピスは病気を治すというより、病人の苦しむ心を癒す施設だったから、祈りの場の礼拝堂は計り知れない意味を持っていたに違いない。
ホテルのインテリアはアン=ソフィー・モット(Anne-Sophie Motte)が担当、クラシックとコンテンポラリーが独特の感覚で調和する、上質のデザインをクリエイトした。17世紀の古いタピストリーが、ポップなアートと好対照を成す。私達のスタンダード(でも広々している)の部屋(全89室)は、淡いグレーに塗装された15世紀のオリジナル建築の天井のビームが、インテリアに深みを与え、ドアや壁がオーク材なのも特徴だ。ルイ15世スタイルの椅子と、スタルクがルイ15世スタイルを20世紀デザインに解釈したルイゴーストを対比させて使っているのもウィットに富んでいる。
私達は泊まるホテルで夕食をとることは皆無なのだが、ここでは「エスタミネ」という、パリや他のフランスの都市でも聞いたことがないお店のカテゴリーに好奇心が湧き、シーズンオフの週末だけの特別オファーで、ディナー付きパッケージを予約してみた。カジュアルでアットホームな雰囲気のフランドル風料理の店「レスタミネ・ガントワ・ブラッスリー・フラマンド」は、パリ通りとマルパール通りの角の最も左端にあたるホテル棟の1階と地下に位置する。エスタミネとは、パ・ド・カレーやピカルディ地方独特で、カフェと居酒屋とレストランが一緒になったような、昔から庶民の気さくな集いの場。元々は田舎風で、農家の用具や機材、農村の風景画などが配された内装の店だという。郷土料理を是非ということで、私のメインはムール貝、ヘニングさんは牛肉のビール煮(カルボナード・フラモンド)に決定。美味しい!しかしボリュームは前菜からして半端ではない。ワインもグラスでなく、1ボトル付き。頑張って食べきった。これだけお腹いっぱいだと朝食はパスしようかと思ったが、翌朝にブレックファストルームでもある「レストラン・ガストロミック・レルミタージュ」に行ってみると、赤とゴールドのヴォールト天井の優美な空間に魅了され、コーヒーを飲みながら夫婦でおしゃべりするうちに、あっという間に時間が過ぎていた。
フランス

2017/08/01
トリアノンパレス・ヴェルサイユ、ア・ウォルドルフ・アストリア・ホテル(フランス・パリ)
ヴェルサイユ宮殿の庭園に隣接するという、究極のロケーションを誇るホテル「トリアノンパレス・ヴェルサイユ」。パリの喧噪を離れ、ヴェルサイユの緑の自然に囲まれた環境にデラックスホテルを建設したいと、パリの実業家ヴェイユ・マルティニャンが一念発起したのは、1907年のことであった。フランスの17世紀18世紀の建築を愛した建築家ルネ・セルジャン(1865-1927)の設計で、気品あふれる白亜の館が、1910年5月1日にホテルとして誕生した。セルジャンは古典的建築と、20世紀初めのモダンなコンフォートを融合するスタイルで評価され、ヴェルサイユのプチ・トリアノン宮殿にインスパイアされた、パリのニッシム・ド・カモンド美術館や、ロンドンのサヴォイやクラリッジといった由緒あるホテルの増改築も手掛けた。
創業以来、このホテルを訪れた著名人は数えきれない。その頃フランスに逃亡していたイタリアのスキャンダラスな作家ガブリエーレ・ダヌンツィオが、300人ものゲストと祝宴を開いたりもした。サラ・べルナール、マルセル・プルースト、ジャック・ブレル、ジャン・ギャバン、ジャンヌ・モローetc…。王冠を賭けた恋として、歴史に語り継がれたウィンザー公爵(元英国王エドワード8世)夫妻は、トリアノンパレスでハネムーンを過ごしたのであった。1930年代には、コンコルド広場からホテルまで直通の出迎え車が、なんと日に3度も運行していたという。
ホテルは2007年にウォルドルフ・アストリア・コレクションの欧州進出初のプロジェクトとして再オープンする。億単位の投資でロンドンを拠点に国際的に活躍する「リッチモンド・インターナショナル」(代表:フィオナ・トンプソン)が全面改装した。フォーシーズンズやザ・ランガムといった最高級ホテルのプロジェクトを次々と成功させているホスピタリティーデザイン事務所だ。クラシックとフレンチシックを調和させたインテリアは、ヨーロッパホテルデザイン賞のロビー & パブリックエリア部門賞に輝いている。
エントランスホールのアイキャッチャーは、モノクロ大理石の床の抽象的パターン上で、ビビッドに映える春の緑色のソファと、神秘的な光を放つ強烈な存在感のシャンデリア(アンドロメダ社)だ。ムラノガラスをまるで毛糸のマフラーを編み上げたようなユニークな造形システムは、カリム・ラシッドが開発し「ニット」と呼ばれている。ホールを抜けると、リズミカルなチェス盤パターンの大理石の床のそれは長い廊下に出る。ウィンターガーデンのように、片側が庭と面したエレガントなティーサロン的なラウンジへ続いているが、世界で唯一ヴェルサイユ宮殿の王立菜園のリンゴをブレンドした、その名も“マリーアントワネット”という気品漂うニナス社の紅茶も、ここで飲むとオーセンティックな味がするかもしれない。
ホテルにはいずれもゴードン・ラムゼイの監修で、2タイプのレストランがある。1つはミシュラン2つ星のグルメレストラン、洗練された華やかさの「ゴードン・ラムゼイ・オ・トリアノン」(Gordon Ramsey au Trianon)。もう1つは、夏はヴェルサイユの庭園に面して広いテラス席もあるカジュアルな雰囲気でオールデイ・ダイニングの「ラ・ヴェランダ」(La Veranda)。通常の朝食はラ・ヴェランダだが、大手の某薬品会社の貸し切りになっていて、そのおかげで歴史的な「クレマンソーの間」に案内されることとなった。第1次世界大戦後、トリアノンパレスは連合国首脳陣本部となり、当時の仏首相クレマンソーの名を冠したこのサロンで、1919年にヴェルサイユ宮殿の鏡の間で調印されることになる講和条約が草案されたのだった。
私達が滞在した時、ゴードン・ラムゼイ・オ・トリアノンでは、金曜と土曜に本当にこの料金でいいのかと余計な心配するほどのクオリティーのランチが楽しめたが、今はなくなってしまったようで残念だ。ボルディエのバターが岩石か彫刻作品のような塊から、木のへらであっという間に渦巻く円錐に成形されるのに始まる。あっという間に2時間が過ぎていた。星付きレストランなんて滅多に行くこともないので、内心はお料理の写真も撮りたかったが、撮れなかったのには理由がある。ヴェルサイユ宮殿王立歌劇場に出演中のオペラ歌手とランチの約束をしていて、テーブルに着くなり「よくスマホでレストランの食事の写真を撮る人がいるけれど、あれってホントに興ざめだよね」と言われてしまったのだ。この一言でさすがにカメラを取り出すことはできなかったのである。
またゲランのスパ施設(The Guerlain Spa)には、庭園も眺められるテラス付きで、古代の神殿風のプール(200㎡と広い)もあり、ここで泳いでいると、往路でつい数時間前には高速の渋滞に疲れきっていたことも忘れて、リゾート気分も湧いてきた。
植物が四季折々の美しさをシンフォニーで奏でるようなホテルの庭園をデザインしたのは、パリのルイ・ベネック。ベネックは最近ではル・ノートルによるヴェルサイユの庭園に、300年の時を経て21世紀に相応しい「水の劇場」を復活させる等、フランスを代表する著名な造園家である。手入れの行き届いたこの庭園を挟んで、ホテルは歴史的パレスの本館と、1990年に新築されセミナー施設も整うパビリオンの2つの建物で構成される。客室は、本館にデラックスのガーデンビュー、パークビューとスイートが100室、パビリオンにクラシック、クラシックガーデンビューの99室と、全199室。泊まった部屋は高貴と権威の象徴であったロイヤルパープルのファニチャーやテキスタイルが、ブルボン王朝を偲ばせる。2泊したうちの1泊目は本館に空きがなくて、パビリオンの方になった。ウォルドルフ・アストリアといえばヒルトン系ホテルブランドでも最高級だが、例えばミニバーが壊れていて清涼飲料がまるでお湯の温度になっている等、メンテナンスがあまりよくなかったので、予約時には本館の部屋にこだわった方が無難だろう。
トリアノンパレスへはランニングシューズを忘れずに持参したい。というのもパリ宿泊ではどんな贅沢なホテルでも経験できない醍醐味が待っているのだ。ホテルから王妃(レーヌ)大通りに出て、右のヴェルサイユ庭園への門が開かれると同時に入ると、まるでわが家の庭園のように誰も観光客がいないうちからジョギングできる。一汗流した後の朝食は美味しさも倍増だ。芝生にはもぐもぐ草を頬張る羊の群れまでいて、宮殿見学の混雑振りと比べると信じられない長閑さ。ひょっとしたらマリー・アントワネット王妃の羊が何百年も生き続けたのかと想像したくなるくらいで、ここだけフランス革命前から時間が止まっているようであった。
フランス

2016/11/01
ザ・チェス・ホテル(フランス・パリ)
パリを拠点に活躍する「ジル&ボワシエ」(Gilles & Boissier)は、まさに今をときめくインテリアデザイナーのカップル。昨年完成したニューヨークの「バカラホテル&レジデンス」やモロッコの「マンダリンオリエンタル・マラケシュ」という究極のラグジュアリーホテルのプロジェクトを大成功させている。パリ・オペラ地区のブティックホテル「ザ・チェス・ホテル」(2014年にオープン)は、これらのプロジェクトとは規模も性格も予算も全く違うが、デザイナーにとってこの上なくパーソナルなプロジェクトであった。「私達自身が本当に居心地よく本当に好きだからステイするホテル。私達が好きなアーティストとコラボレーションして、私達が好きなファニチャーを使って。つまり私達が一番好きなホテルをクリエートしたいというのが最初の気持ちだったのです。」(ボワシエ)
オペラ座からほんの5分というホテルのロケーションは観光にもとても便利だ。オペラ座正面に向かって目抜き通りのカプシーヌ通りを右へ、ベルエポックの華やかな内装で有名なブラッスリー「ル・グラン・カフェ・カプシーヌ」のちょっと先、バーガーキングが見えたらその角を左に曲がる。このオスマン通りとイタリア通りを結ぶエルデール通りはかなり殺風景で、アドレスが間違い?と半信半疑になるかもしれない。また扉を開けるとエントランスホールやロビーに出るという普通の歓迎スタイルではないのだ。インターホンを押してレセプションのスタッフに「予約しました」と伝えドアを開けてもらう。パリの心臓部の喧噪を後にちょっと秘密のデザイン&アート隠れ家のようだ。
中に入ると2階のレセプションへ向かうために奥のエレベーターに乗らないといけないわけだが、そこまでの細長い通路の美しさに思わず息をのむほど。パリの若手女流作家アリクス・ワリーン(Alix Waline)が、白い壁に黒のフェルトペンで繊細に描きあげた壮大な抽象風景。ドビュッシーの『海』の音楽が聴こえてきそうだ。ワリーンのグラフィックによる壁紙とクッションが今年ミラノで発表され、プロダクトでもこのアーティストの今後に注目したい。ジル&ボワシエがリニューアルデザインしたパリの高級日本料理店「衣川」でも、彼女の壁画を背に松花堂弁当を楽しむことができる。デザイナーは普段から美術展や美術書でチェックして、これはというアーティストにプロジェクトへの参加を呼びかける。「現場で制作してこそアーティストは光、空間のボリュームといった建築環境を真に理解し、そこに唯一の表現が生まれる。」(ボワシエ)作品を購入してインテリアに組み込むこともできるわけだが、やはりインテリアの完成度が違ってくる。
さてエレベーターのドアが開くと、白黒のチェス盤の市松パターンの床やビッグサイズのチェスの駒のオブジェが目に入り、その瞬間に冗談でなく、ここはチェスホテルと実感する。チェックインしなければいけないのにレセプションの向こうのいい雰囲気のサロン空間の方に魅了され、ついカウンターを通り越して、しばしサロン見学してしまった。2004年にデュオを結成する前、パトリック・ジルはクリスチャン・リエーグル、ドロテ・ボワシエはフィリップ・スタルクの事務所で経験を積んだ。2人はクリエーターとしてもファミリーとしても最良のパートナーだが、デザイン感覚が同じなのではなく、相反する感覚が拮抗しながら異質なものが統合され、最終的に独自のハーモニー空間がクリエートされていく。明白なコントラストの白黒のチェス盤と駒で繰り広げられる知的なゲーム、ジル&ボワシエのデザインプロセスもチェスゲームに通じるところがあるのかもしれない。
サロンの奥の壁は強烈なインパクトを放つグラフィティで、まるで息づいているようだ。コペンハーゲン在住の著名なストリートアーティスト、ヴィクトール・アッシュ(Victor Ash)による壁画。アッシュのファサードをキャンバスにした巨大な壁画は、ヨーロッパの様々な街のアイコンとなっている。ここでは墨絵のタッチで描かれたフクロウの鋭い眼差しに、ギクリとする。フクロウは夜の象徴、ここパリの夜に眠るゲストをきっと守護してくれることだろう。
ホテルのレイアウトは、残念ながら前身のホテルの悪条件な空間構成をほぼそのままに受け継ぐ他なく、客室(全50室)も比較的小さめだ。開閉に無駄なスペースを要するドアの代わりに、クローゼットやバスルームのパーティションは麻のカーテンだったりする。劇場の舞台の幕のようにそのカーテンを開けると、白黒のチェス盤パターンのタイルに、グレーの大理石の洗面台という洗練されたデザインのバスルームが登場するのだ。部屋のデザインは空間的贅沢ではなく、1つ1つのインテリア要素、ゲストが使うカスタムメードの上質のファニチャーに、デザイン価値を集中させてある。またトイレのドアの引き戸が特に美しい。ファッションデザイナーの島田順子ともコラボレーションしたことがある彫刻家・イラストレーターのシプリアン・シャベール(在ベルリン&ニューヨーク)が手掛けた、まさに京都の町家からパリに運んだような粋な襖絵のようなのだ。
ヘニングさんがチェックアウトしている間に、サロンのテーブルに用意されたチェスセットに目をやると、こんな歴史的エピソードを思い出した。今から150年も前のこと「オペラ座の対局」や「オペラ座の一夜」と言われたチェス史に残る試合がパリのオペラ座で行われたのだった。ドイツのブラウンシュヴァイク公カール2世とフランスのイゾアール伯爵の2人が、パリを訪れていたニューオルリンズ出身の若き強豪ポール・モーフィーに、2対1の試合を申し込む。勝負の場はなんとオペラ座のボックス席、それも舞台ではベッリーニの「ノルマ」が上演されていたのである。新世界アメリカからの名手が古きヨーロッパの貴族を敗った。いや演目はロッシーニの「セビリアの理髪師」だったという説もあるが、オペラのストーリーのドラマチック性やアリアの美しさを考えると「ノルマ」を聴きながら、という伝説の方を私は記憶にとどめておきたい。
フランス

2016/03/01
ハイアット・リージェンシー・ニース パレ・ドゥ・ラ・メディテラネ(フランス・ニース)
ニースの天使の湾に沿って、プロムナード・デ・ザングレが東西に伸びる。椰子の木が並び、南国の雰囲気が漂う海岸遊歩道だ。この大通りに面して、ニースで最もユニークなファサード建築を今に残すホテルが「ハイアット リージェンシー ニース パレ ド ラ メディテラネ」である。同じ通りにあるホテル「ル・ネグレスコ」(次ページで紹介)のベル・エポック建築と、パレ・ ド・ ラ ・メディテラネ(地中海の宮殿)のアールデコ建築はランドマークとなっていて、その2つの建築からニースの街の現代物語が綴られてきた。アントワーヌ・サルトリオによるファサードのレリーフ彫刻は、地中海に昇る太陽の光を背景に、2頭の海の馬から駆け上がり、空にはカモメが飛び交い、女神が豊かな自然の恵みを象徴する。夜には照明効果で、よりドラマチックに馬や女神の輪郭が浮き上がる。
パレ・ ド・ ラ ・メディテラネは、元々カジノを中心としたゴージャスな娯楽施設で、1929年にシャルル&マルセル・ダルマスの設計で完成した。今のファサードの柱の間が、地中海に向けて比類ないパノラマウィンドーだったのだ。2つの世界大戦の狭間、黄金の1920年代、グラマラスな1930年代には。世界のショーウィンドーたる華やかな存在だった。ジャンヌ・モローがギャンブルに身を崩す女を演じた、ジャック・ドゥミ監督の映画「天使の入り江」に出てくるカジノの建物である。ここのカジノは、当時モンテカルロのカジノと肩を並べる社交界の花形舞台だった。オープニングには、アメリカの富豪グールド夫妻の招待で、チャップリンを始め、当時のセレブ達が国内外から集まった。1,000人収容の劇場では、エディット・ピアフ、ジョゼフィン・ベーカーやルイ・アームストロング、デューク・エリントン等、世界のトップスター達がステージに上がったものだった。
1978年には、ニースのカジノ戦争とも言われたそうだが、カジノ所有権を巡るごたごたに巻き込まれ、建築保護法下にあったファサードだけ残し、建物は解体されてしまう。2004年にやっと修復再建され、デラックスホテルとして再生した。コンコルドホテル & リゾートから、3年前にハイアットが譲り受け、現在に至っている。
「シンプリシティの創造性」をモットーに掲げるデザイナー、シヴィル・ド・マルジェリー(SMデザイン社)がホテルのインテリアを手掛けた。パリのマンダリンオリエンタルの客室やスパのインテリアも彼女の仕事である。パレ・ ド・ ラ ・メディテラネの館内のロビーなど、アールデコの装飾的なエレメントやマテリアル、色を効果的に使い、華やかな時代の空気を蘇らせると同時に今日性も忘れない、コンテンポラリー・アールデコなインテリアに仕上がっている。
パブリックスペースのハイライトは、3Fのガーデンテラス。かつてカジノだった空間だ。特にフロントファサードの柱間にあるテーブル席で、グラスを傾けながら夕陽が沈む絶景を待つのはとてもロマンチックだ。ホテルのラウンジバーやレストラン「ル・トロワジエム」(Le 3e)も、屋根のないアトリウム的な空間のガーデンテラスに面している。プールは温水で、ニースには珍しく、冬でもアウトドアで泳ぐことができた。
客室はスイート9室を含む全187室で、その多くは3Fのガーデンテラスをコの字型に囲んでバルコニーが付く。位置によりファサードの構造が視界を妨げ、必ずしも海がよく見えるわけではなさそうだ。海が見える部屋を予約しておいたら、思いがけないクリスマスプレゼントで、このホテル最高の「ペントハウス・スイート」にアップグレードされ、本当にびっくりしてしまった。最上階9Fのスイートは117㎡もの広さで、バスルームはベッドルームよりも広く、バスタブも子供なら泳げるほどのビッグサイズだ。ルーフテラスに出て更に驚いた。宿泊するのは2人だけなのに、シェーズ・ロングからソファ、チェアまで、数えたら12人分の椅子が用意されてある。カンヌ映画祭の時などひょっとしてプライベートのパーティーを開いたりするセレブもいるのかなあと想像する。西はアンティーブ岬の背後に沈む太陽から、東は水平線の向こうに昇る太陽まで、素晴らしい眺め。インテリアは快適さを追求したデザインだ。このスイートのデザインで最も印象的だったのが、エントランスとリビングダイニングを結ぶ、長いフロアの途中にあるゲスト用ベッド。壁に掛けられた音符が飛び交うアートが示唆するように、ここは究極のリスニングスペースだった。iPhoneに入っているスターバト・マーテル(ホーフシュテッター指揮)を響かせてみた。仰向けになって音楽に集中する。一晩中でもこうして聴いていたいほどの心地よさだった。
(普通はホテルのインテリアは写真の方が実際よりも魅力的に見える場合が多いのだが、このスイートは天井が比較的低いこともあってか、どうも写真にうまく空間が収まらず、現物のインテリアの方が写真より魅力だったことを付記しておきたい。)
日の出の時刻にあわせて早起きして、まだ人影も疎らな海岸遊歩道をジョギングして、帰りに焼きたてのクロワッサンをパン屋で買ってお部屋でお茶を入れて朝食にした。お茶を飲みながらスイートをぐるりと見回すと冗談ではなく広かった。こんなアップグレードはもうないだろうと、チェックアウトの時間3分前までギリギリ居座ったのだった。
フランス

2015/08/03
ル・グラン・ホテル・カブール(フランス・カブール)
「ル・グラン・ホテル・カブール」ほど、1つのリゾートホテルが1人の作家と結びついている例は希有だろう。20世紀のフランス文学の最高傑作、マルセル・プルーストの長編小説「失われた時を求めて」の第2篇「花咲く乙女たちのかげに」に、ノルマンディーの海辺の架空の避暑地バルベックと、グランドホテルが登場する。その実存モデルとなったのが、このカブールにあるグランドホテルだ。世界中からプルースト文学を愛する人が泊まりにくるという。プルーストは1907年から1914年の第1次世界大戦勃発まで(戦中このホテルは、負傷兵看護施設に)、7年に渡り、毎年の夏をここで過ごし執筆した。その滞在期間を合計すると1年半ほどになる。ホテルは作家にとって、当時の社会変化の鏡と言える場所でもあった。現在は世界中の個性的な高級ホテルを集めたアコーホテルグループのコレクション「Mギャラリー」に名を連ねる。
カブールには、ノルマンディーのコート・フローリで最も長い4kmの砂浜が広がり、ホテル前の海岸沿い遊歩道は「マルセル・プルースト・プロムナード」と呼ばれる。毎年6月恒例の「ロマンチック映画祭」(Festival des romantischen Films)が開催されると、ここにレッドカーペットが敷かれることとなる。
自分の悲しい人生に比べれば、カブールで過ごす時間はまるで美しい夢のよう、とプルーストに言わせたリゾート地は、元来は19世紀半ばまで小さな漁村だった。(現在の夏の人口は6万人だが、冬は4000人ほど)それがパリの弁護士で先見の明ある実業家のアンリ・デュラン・モリンボーの構想で、古代ギリシャの野外劇場(テアトログレコ)に倣い、カジノとホテル(1861年創業)を中心に、放射状に通りが走る半円形の新リゾート地に開発された。今ならパリから2時間だが、当時は7時間かかる長旅だったから、ちょっと週末をというわけにはいかず、パリからの裕福な客は何週間かまとめてのバカンスを過ごすようになる。
1907年7月にプルーストは、フィガロ紙でノルマンディー海岸のグランドホテルが解体され、かつてないコンフォートを揃えて新築再オープンするという記事を読み、すぐに部屋を予約させ、8月にはカブールにやってきた。喘息に病む作家には、ガスや石炭でなく、電燈やセントラルヒーティング完備という技術進歩も魅力的だった。グランドホテルは、20世紀初頭のフランスで最もモダンなホスピタリティーを誇っていたのだった。最新の電話システムや水道システムが、プルーストには当時の変革する社会の複雑なネットワークの象徴のように思えたに違いない。
過去の名声だけに頼っていてはグランドホテルの未来もない。3年がかりの大修復・大改装を経て、2011年に新スタートを切る。アコー社が650万ユーロを投資し、不動産所有者のカブール市が160万ユーロをかけた。クラブメッドのデザイナーでもあるパリのマーク・ハートリッチと、ニコラ・アドネのデザインスタジオ(Hertrich & Adnet)が、ベル・エポックのパリ社交界の夏の舞台であったグランドホテルの雰囲気を残しながらも、イタリアのルネサンスの美意識と今の時代の新しいエレガンスを融合して、グランドホテルの輝きを取り戻した。家具、照明、絨毯、壁紙、テキスタイルは、歴史的装飾デザインをふまえた上で新しくデザインされ、フランスの伝統職人工房でオーダーメイドされた。「20世紀を生き抜いた古い建物を歴史に敬意を表しながら、私達の時代に再びエスタブリッシュさせなければなりませんでした。コンテンポラリーな要素とスタイリッシュなフィーチャーを繊細に歴史にブレンドして、エレガンス & ロマンスの観点で新しいビジョンを実現しました。」
ホテルに入ってレセプションに向かう前にまず目を引くのは、プルーストの時代からの美しい石の床の模様と、劇場の緞帳のようなゴージャスなカーテンの向こうのバー「ラ・ベル・エポック」だ。このバーでは「ホワイトスワン」というロングドリンクを試してみたい。期待通り「失われた時を求めて」にインスピレーションを得ており、プルーストが愛飲したヴーヴクリコのシャンパーニュのホワイトラベルと、サンジェルマン・エルダーフラワーのリキュールにレモンピールとライムジュースの爽やかなミックスだ。ホテルのロビーを抜けるとシーサイド。ノルマンディーの海岸の5つ星ホテルで、ダイレクトにプライベートビーチと繋がる唯一のホテルなのだ。バカンスのシーズンにはオープンエアの「ラ・プラージュ」レストランもオープンする。大きな窓のレストランをプルーストは電気の照明に明るく光るアクアリウムに喩えていたが、この「ル・バルベック」では、ガラスフロントからシービューを堪能しながら食事を楽しめる。フランス映画「ぼくの大切なともだち」もここで撮影された場面がある。夜型のプルーストは午後2時まで眠り、遅い朝食にレストランで舌平目とカフェオレを注文していたとか。
ホテルの客室は全70室、荘厳な外観の印象からすると少ないのではと思う。客室のある4フロアには、カブールに縁ある著名人の名前がつけられた。プルーストはもちろんのことだが、 パリの伝説的ミュージックホール「オランピア」のディレクターで、晩年1970年代にカブール市長に就任し、パリのアーティスト達を再びこのリゾート地に誘いブームをもたらしたブルーノ・コカトリや、女優のサンドリーヌ・ボネールの名が見えた。ジャン=バティスト・ピロン大佐とは誰かと思ったら、第2次世界大戦時にカブールを解放した英雄とのことで、その頃ドイツ軍がこの美しいグランドホテルと海辺を占領し、近所に娼館まで設けて楽しんでいたという史実に、ドイツからの客としては申し訳なくなってしまった。
「そう簡単に何度も来られないから、是非ともプルーストの部屋に泊まりたい」と思い、部屋が空いている日にカブールに着けるよう必死で旅程を調整した。他のリニューアルされた部屋の方が快適さもレベルアップで、デザイン的にもずっと魅力的だけど、熱烈なプルースト愛読者のヘニングさんには、インテリアもノスタルジックな414号室しかありえない。(ヘニングさんは20代の頃に喘息にかかってしまい、当時はハウスダストのアレルギーとは知らず、プルーストの読み過ぎかと疑いたくなったこともあったのだ。)この部屋だけ、時が真空パック保存されたよう。プルーストはホテルの4Fに3室の部屋をとっていたと言われ、自身はその真ん中の部屋に寝泊まりした。左右の部屋は隣室からの音が邪魔にならないよう、確実に静けさを確保するための防音エアクッション役だったわけだ。真鍮のベッドにアールヌーヴォー装飾の木の戸棚、書机にランプ、調度品はプルーストが滞在した時代のヴィンテージものだが、実際に使ったものではないので、憧れの作家が夢見たベッドに眠れるとか、その点は期待しすぎないように。でもこの部屋の窓からプルーストが波の数を数えていたのかと思うだけでも感動してしまう。ガブリエル・フォーレやレイナルド・アーンの楽譜を棚に発見し、フィリップ・ジャルスキーが歌うフォーレやアーンのフランス歌曲をiPodに入れてもってくればよかったと後悔してしまった。
フランス

2013/07/01
ラディソン・ブル・ホテル・ナント 1
ナントにはジュール・ヴェルヌの時代から創造精神を育む伝統があるのか、造船業の衰退後もクリエイティブな発想で都市再開発を推進し、21世紀の豊かな文化生活都市へと変貌することに成功している。また、ホスピタリティー事業でもドイツの市議会では、絶対に決案無理なアイデアが現実化された。
旧パレ・ド・ジャスティスという裁判所の歴史的建築が2年越しで修改築され、昨年11月に「ラディソン・ブル・ナント」が華々しくオープンした。裁判所がラグジュアリーな4ツ星デザインホテルになったのは、ヨーロッパでも初めてのことで、ラディソン・ブルのブランドにとっては、フランス国内最新のフラッグシップのプロジェクトでもある。パレ・ド・ジャスティスは日本だと具体的になんという法務機関になるのか私にはよくわからないが(ドイツだと裁判所だけでなく州法務省が入っている場合もある)、裁判所でも高等裁判所の類だろうか。1852年の建設(建築:Saint-Félix Seheult, Joseph-Fleury Chenantais)で、2000年にナント島にジャン・ヌーヴェルの設計でパレ・ド・ジャスティスが新築されるまで実際に裁判所として機能していた。
ホテルはナント中心街のアリスティード・ブリアン広場に面する。この広場はナント出身の著名な政治家でフランス首相も歴任し、ノーベル平和賞も受賞したアリスティード・ブリアンに捧げている。広場からホテルと対面すると、新古典主義のファサードは今でも“正義の殿堂”という風格と威厳を漂わせる。“正義が無罪を擁護する”ことをメタファーにした彫刻(Étienne-Édouard Suc)やエントランス両サイドの正義の女神と獅子像が“法と力”を象徴する彫刻(Amédée-Aimé Ménard)も印象的だ。ホテルへのリノベーションはパリのDTACC建築事務所のジャック・ショレ(Jacques Cholet)が指揮し、インテリアはパリのジャン=フィリップ・ヌエル(Jean-Philippe Nuel)が手がけた。歴史を物語る重厚な建築とエスプリの効いたコンテンポラリーなインテリアが色鮮やかに共生する。
考えてみると裁判所と名のつく建物に入ったことがなかったので、何も悪い事はしていないのに足取りがちょっと恐る恐るとなってしまった。裁判官や弁護士、陪審員、容疑者が出入りしていたわけだ。黄金のライオンオブジェに出迎えられ、裁判所の正面中央の大階段を上ると、裁判所のエントランスホールだった吹き抜け空間、床面積が400㎡と、それは広々としたロビーに出る。古代ギリシャ風の列柱に囲まれ白と黒を基調にしたホールに赤、牡丹色、茄子紺などの強烈なカラーアクセントとなるファニチャーがリズミカルにアレンジされ、理性に徹した空間が暖かく、エモーショナルなホテル空間に移行している。光天井からさんさんと自然光が降り注ぎ、レセプションデスクともレセプションカウンターとも言いがたい、純白の翼のようなオーガニックなテーブルオブジェクトでチェックインとなる。ラッカー仕上げで真っ赤な光沢のホテルのカフェバーが「ル・プレアンビュル(Le Preambule)」。カフェバーのあるロビーホールはホテルのプレリュードとでもいうのか、プレアンビュルは法律の“前文”を意味している。元来は重罪院(Cour d'assises)の法廷として裁判が行われていた吹き抜けの空間に、レストラン「ラ・シーズ(L'Assise)」が配された。裁判官が判決を下した最奥の一段高いコーナーにも見渡しのいいテーブル席が設けられ、その中央にはワインボトルがインスタレーションされる。ホテルのデザイン同様に、地方の伝統料理とモダンに解釈し直した料理の両方が堪能できる。夜は壁にビーマーから神秘的な光のショーが投影される。スパ&フィットネスは、以前は被告人が刑の宣告を待つ部屋だったそうで、日頃の運動不足を宣告された気分で、トレーニングにもいつになく熱が入ってしまった。
ポップなドット模様のカーペットが足元を楽しませてくれるフロアを通って辿り着く客室はダブルが122室、ジュニアスイート&スイートが20室の全142室を数える。デザイナーはナント美術館に『聖ヨセフの夢』などの名作がコレクションされるジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵画に大きなインスピレーションを受け、部屋もバスルームも色彩的にもライティングでもラ・トゥールの絵画のように明暗、光と闇のコントラストが強いインテリアになった。そこで翌日ラ・トゥールの絵を観たいと美術館へ向かったら、がっかりすることに改修工事で閉館中。そしてなんとコレクションは現在日本の美術館を巡回中とのことで失笑してしまった。白いファニチャーの多くはこのホテルのためにオリジナルデザインされたと言う。
普段ならこの“ロマンス”という名のパッケージなどまさか利用することはないのだが、オープニングのプロモーションレートだったのか、スタンダードと変わらない料金で、ジュニアスイートだと朝食&花束&シャンパーニュをサービスしてもらえるということで、この歳になって初めて“ロマンス”なるパッケージを予約したのだった。しかし花束も部屋に見当たらないし、シャンパーニュへのお誘いもない。ラディソンの予約センターとホテル間の連絡ミスとわかり、お詫びにと、まずバーでシャンパーニュを1グラス頂くことになった。予約センターがミスしてくれたことに感謝!花束の方はというと、ボーイさんが急いで街の花屋に送り出されることになったらしく、しばらくするとフローリストの名刺付きで、春らしく清楚な花束が部屋に届けられた。指定通り真夜中に部屋に運ばれたシャンパーニュのボトルは、ラベルを見て「ルイナール」なのにもポジティブに驚いた。花束を改めて愛でる。実はこんなきれいにアレンジされた花束など今までもらったことがなかったので、本当に嬉しくて仕方ない。ナントからロワール古城をまわってハノーファーに戻るまでの1週間、この花束を車の後座席に乗せて(ほとんどドライフラワー化してしまったが)旅して家まで運んだのだった。
フランス

2013/03/18
ホテル・クール・デュ・コルボー(フランス・ストラスブール)
世界遺産に登録される旧市街グラン・ディルは、大聖堂のゴシック建築やコロンバージュ(木組み)のアルザス伝統建築が美しく保存されており、欧州議会を始めEU機関が集まるヨーロッパ区には、現代建築が建ち並ぶ。そういう新古の2つの性格が調和するストラスブールの街にふさわしく、ホテル「クール・デュ・コルボー」には、ルネサンス建築と今日のデザインが、コントラストを描きながらも矛盾することなく調和している。宿としての創業が1528年というから、ヨーロッパで最も古いホテルの一つに数えられる。「クール・デュ・コルボー」は、アルザス地方に残る木組み建築の中でも屈指の美しさだ。また4ツ星のラグジュアリーホテルで、全てが木造建築というのもかなりの希少価値だろう。
ストラスブールの中心から、コルボー橋(中世には犯罪者を袋にいれてこの橋から川に投げたという)を渡って、イル川河畔のコルボー広場の小さなアーチをくぐり抜けるとホテルの中庭へと通じる。広場側からは、ここを入ると本当にブティックホテルが現れるのか、ちょっと心配になる面持ちだが、、。クプレ通り側のメインエントランスは、種類の違う木のパネルがリズミカルにアレンジされたモダンなファサードの建物だが、中庭側から入った方がずっと強烈な印象だろう。コルボーとはカラスのことだそうで、コルボー橋はカラス橋、コルボー広場はカラス広場、「クール・デュ・コルボー」は“カラスの中庭”となり、なんだかカラスだらけだが、カラスのお宿だったわけではなく、ホテルの人にもカラスになった確かな理由はわからないそう。
建築コンプレクスは、1930年から歴史的モニュメントに指定されており、ストラスブールで必見の観光名所に挙げられることも多く、滞在中はホテルの中庭の見学に訪れる観光客にも何度か出会った。ゼラニウムの赤い花が欄干やバルコニーを鮮やかに飾り、中庭からの眺めは絵葉書そのままの光景だ。中世からの時代を経て、曲がったり傾いたりした木造建築が、夜になりライトアップされると神秘的でさえあり、螺旋階段や渡り橋や窓枠が動き出すかのようでもある。
「クール・デュ・コルボー」は、個性的なブティックホテルのコレクション「Mギャラリー」のメンバーでもある。Mギャラリーはアコーホテルズの新しいラグジュアリーブランドで、英国出身の個性派女優クリスティン・スコット・トーマスがブランド大使を務める。今はストラスブールの「クール・デュ・コルボー」なわけだが、16世紀の昔は神聖ローマ帝国の時代だったので、ドイツ語でシュトラースブルクの「ツム・ラッペン(黒馬)」と呼ばれる宿屋だった。3世紀に渡り由緒ある宿として知られ、モーツァルトやリスト、アレクサンドル・デュマもゲストに数えられ、プロイセンのフリードリヒ大王やオーストリアの皇帝ヨーゼフ2世もお忍びで滞在したものだった。しかし1852年に閉業となり、教会のステンドガラスなどで有名だったオット兄弟のガラス工場へと用途は大変した。このホテルの建物で100年以上にも渡り、戦争時にもガラス職人が働いていたとは今は想像もつかない。そのガラス会社も閉鎖され、1982年にストラスブール市が不動産を買い上げるが適切な利用案もなく、建物は空き家のまま次第に荒廃してしまう。あまりにも厳格な歴史的モニュメント保護法下の条件がネックとなり、ホテルプロジェクトもなかなかうまく行かなかった。このままでは建築文化遺産が廃墟になると、「クール・デュ・コルボー」の救世主がやっと現れたのが2006年。売価70万ユーロで投資額が約1500万ユーロと聞く。2007年に根気のいる気が遠くなるような修改築作業を開始して、2009年5月にブティックホテルとして再誕生する。
プロジェクトを指揮したのはパリの建築家ブノワ・ポーセル(LPAアーキテクツ)。可能な限りオリジナルの建築要素が残され、再利用不能な状態のマテリアル、破損部分は同様の古材を探して使ってある。木の支構造は、ほぼ全てのオリジナルを特殊な樹脂加工を施し、強化して保存した。例えば屋根瓦の不足分は解体される運命にあったアルザス地方の古い家との同じ色合いの屋根を再利用している。暖房や温水はエコロジカルに地熱発電だ。部屋の扉は昔からのトスカーナレッドに塗装された。ルネサンス時代には雄牛の血で赤く塗装されていたとのことだが、この伝統はまさか受け継いではいない。
ホテル内をいろいろ探検し歩くと好奇心旺盛のゲストとしては、様々な発見が多く楽しくて仕方ないが、廊下の途中で変に曲がっていたり、突然段差があったりで、ふと清掃担当スタッフのことが頭に浮かんだ。階段も多いし、清掃用カートでは動けないような廊下もあるし、通常以上に体力と手間が要求されるに違いない。本当に毎日ご苦労さまです!
フランス

2010/10/20
ホテル・ル・キャンベラ (フランス・カンヌ)
太平洋岸の街で育ったからか、水平線の彼方には未知の素晴らしい何かが待っていると、海岸から眺める水平線の向こうに、子供の頃からとても憧れていた。私の住むハノーファーは内陸の都市で、どこに行っても水平線は現れてくれない。北ドイツの短い夏も終わり、これからまた暗くて長い冬がやって来るかと思うとその前にどうしても青い海と水平線を見ておきたくなった。どの海でもよかったのだが、格安エアラインでラストミニットの週末フライトが取れたのがなぜかニースだけ。とにかく急なプランだったので、到着日にはニースだとお目当てのホテルはリーズナブルな部屋がどこもとれず、まずはカンヌに1泊することにした。
洗練されたデザインのブティックホテル「ル・キャンベラ」 (4ツ星) はカンヌの目抜き通り、駅と海岸の中間の東西に長く伸びるにぎやかなアンティーブ通りに建つ。最高級ブランドの店やデラックスホテルがズラリと並ぶ海岸沿いのクロワゼット大通りとは雰囲気も違って、ちょっと庶民的で初めてなのに自分のアパルトマンに戻るかの親近感があった。このホテルは全面改装をパリの著名な建築家でインテリアデザイナーのジャン・フィリップ・ニュエルが手掛け、2009年に新しく生まれ変わった。ニュエルは1961年生まれ、パリ国立美術学校で建築を学び、ル・メリディアン、ラディソン、インターコンチネンタルなど大手ホテルチェーンにも引っ張りだこの才腕インテリアデザイナーだ。洋菓子店の「アンリ・シャルパンティエ」や「ポーラ・ザ・ビューティ銀座店」 (JCDデザインアワード2010受賞) など、日本でも高く評価されている。「ホテルはマイホームを越えた空間でなければならない。デザインはゲストを心地よくサプライズすべきだ。旅の思い出、出会いの思い出、発見の思い出、人それぞれが旅先で記憶に残しておきたいモーメントを書き綴ったその人だけの物語が生まれるように。」ニュエルのこういったホテルデザイン哲学がル・キャンベラでも見事に具体化されている。
1886年に設計されたクラシックな建築の中に足を踏み入れた瞬間に、最初のデザイン・サプライズに歓迎される。大理石の階段に大胆な白黒のストライプの壁だけなら驚かないが、天井からピンクの光が階段室全体に降り注ぎ、空気までピンクに染まっていたからだ。往年の映画『マイ・フェア・レディ』で、ピンクの造花のブーケをあしらった帽子に、白黒ストライプの大きなリボンが印象的なオードリー・ヘップバーンの装いを空間に移行したかのデザインである。ニュエルはル・キャンベラのデザインで1950年代、1960年代の今とはまた違った映画界の華やかさ、グラマラスな映画の魅惑世界をコンテンポラリーに表現している。
レセプションの男性スタッフのネクタイも淡いピンク色で、ラウンジにもピンクの椅子が混じり、部屋にもピンクのソファが一つ、バスルームにもピンクのサプライズ効果が待つという具合で、嫌みのないきれいなピンクが、館内の可憐なアクセントになっている。ラウンジの一番奥の壁一面を1950年代のクロワゼットの白黒写真が占め、オートクチュールのプリーツドレスのスカートのようなビッグサイズのランプシェードから、夜は暖かい光が透けて差す。またホテルでは、フランスのミッドセンチュリーモダンの巨匠デザイナー、常にイノベイティブであったピエール・ポラン (1927年ー2009年) の代表作に座れるのも嬉しい。ホテルのラウンジには「オレンジスライス」、明るく白に統一された「ル・カフェ・ブラン」のテーブル席には「リトルチューリップ」が配された。ガラス張りのサンルーム風なレストランは、その白いレザーの椅子達が背景の庭の竹の葉の緑や、プールの薄緑のモザイクと鮮やかにハーモニーする。ホテルの裏庭はアンティーブ通りの喧噪が届かないくつろぎのオアシスだ。ブーゲンビリアや椰子の木もまさに南仏のイメージ。午後のカンヌ散策に出る前にコートダジュールの空の下、竹林に囲まれたプールで一泳ぎすると、ドイツの曇り空と冷たい雨をすっかり忘れて心身ともにシャキっと元気になった。
客室階のエレベーターを出ると予期せぬサプライズにびっくりさせられた。それは騙し写真とでもいおうか、壁に人物の原寸大の写真を飾ってあるのだが、タキシードのジャケットを脱いで小粋に肩にかけた男は、私達に気がついてふと振り向く。
実際にはない廊下を、本当にその写真のごとく正装したカップルが、カンヌ映画祭のパーティーからほろ酔い加減で部屋に向かって歩いていると、一瞬信用してしまうのだ。
客室は全30室&5スイート。キルティングした白いレザーのベッドヘッド、そのベッドヘッドの鏡張りのシルバー効果のあるフレームやシルバーのファブリック等、ハリウッドスター女優の楽屋をイメージしたくもなる。レセプションカウンターも白いキルティングレザーだったが、同じ仕様が部屋のスツールにも使われ、この辺にもホテルがトータルデザインされていることが改めて認識される。部屋のカーテンはパリのピエール・フレィ社にオーダーメードされた。プリーツの風合いが特徴で、『7年目の浮気』の映画で地下鉄通気口の上で、フワリとセクシーに舞い上がるマリリン・モンローの白いドレスのスカートにインスピレーションされたのではないかと想像してしまう。
木目の美しいドアを開けると、バスルームも部屋に負けずにスタイリッシュだ。星屑のように光が当たるとキラキラする黒い石の洗面カウンターに、比較的浅い長方形のマットな黒の洗面器、鏡は大きな楕円形、アントニオ・チッテリオがデザインしたアクサーの水栓にシャープに光が反射する。トイレは漆のごとく黒く艶光りするタイルに囲まれる。左半分のバスエリアは対照的にクリーンな白が基調になる。しかしバスルームの照明をオンにするとこれもニュエルが仕掛けた心地よいサプライズで、バスタブ上のライトからピンクの光が降り注ぐという趣向だ。お湯まで桜湯のように淡くピンクに染まったかで、愉しくてついつい誰でも長湯になりそうだ。
夕方また海岸に出かけた。クロワゼットの遊歩道には、誰でも自由に使える空色の椅子があちこち置いてある。屋台で缶ビールとホットサンドイッチを買って、カンヌ風物詩の一つのような空色の椅子で、夕焼けから夜景に変わるコートダジュールの自然ドラマを堪能する。するともう1980年代から聴いたこともなかった曲、「ハーバーライトが、、、その時一羽のカモメが飛んだ」と渡辺真知子のかつてのヒット曲が、突然口から出てきた。「ラ・メール」のシャンソンでなく「カモメが飛んだ日」か、何年ヨーロッパで暮らしても昭和人だなあ、と苦笑いしたのだった。
フランス

2008/11/20
ホテル・パリ・ルーブル・オペラ(フランス・パリ)
芸術の都パリに縁ある芸術家は数知れない。19世紀末から第一次世界大戦で貴族社会が崩壊するまで、パリがかつてない華やぎを求めたベル・エポック(美しき時代)を駆け抜けた短命の画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック (1864 ~1901) もその一人だ。ホテル・パリ・ルーヴル・オペラのあるムーラン通りにはロートレックが一時住み込んで制作していた娼館があった。運命に遊ばれた娼婦達の素顔を描いた名作が生まれた。ホテルになった17世紀のバロック時代の建物はオペラとルーヴル美術館の中間に位置し18ヶ月もの時間を費やして再建、改装された。パリのど真ん中にいて隠れ家的なのも魅力だ。この小さなブティックホテル(2005年にオープン)の小さな部屋の窓を開け古い鉄の装飾的な手摺に触ると、ロートレックの生きたベル・エポックの空気が感じられた。甘酸っぱくデカダンの香りがする空気だ。
ホテルのオーナーのオリヴィエさん自身がデザインしたというだけあってインテリアの隅々にも建物への愛情が注がれている。プライベートなサロンの雰囲気のラウンジでは今年日本で初展示されたロートレックの「黒いボアの女」 (1892年) の複製がゲストを迎える。レセプション、ロビー、ブレックファースト・コーナー、階段室といったパブリックスペースは木の葉をモチーフにしたメタルワークのファニチャーが職人の手のぬくもりまで想像させインテリアに深みを出している。鏡のデザイン一つにも隣国なのにドイツではありえないフランスのエレガンスが形になっている。すみれ色とモスグリーンというカラーコンビネーションも独特だ。
部屋はシックにブラウン、べージュ、ワインレッドにトータルカラーコーディネートされ、私が泊まった頃は、ベッドは毛布にベッドカバーのスタイルだったが、今はフカフカの掛け布団にリニューアルされているとのこと。足を自由に動かせるように寝る前に毛布をマットレスからえいっと解放する必要がなくなったわけだ。白い布団カバーは小さい部屋を明るく広く感じさせる効果もあるに違いない。ホテルは全20室だがそのうちの17室がバスタブ付きのバスルームなのもパリの街を歩き過ぎて疲れた足を癒すのに嬉しい。ナチュラルなベージュ色にまとめられ、限られたスペースを最大限に活かして構成された。
バスチーユ/マレ地区ならパリの私のお気に入りホテルはプチホテル「カロン・ド・ボーマルシェ」である。モーツァルトの「フィガロの結婚」の原作者で18世紀の著名な劇作家ボーマルシェに捧げたインテリアで18世紀と現代が繋がる。初めて泊まったのはもう10年以上前のことだが、偶然通りを散歩していて出会ったホテル。可愛いアンティーク家具のお店だと思ってショーウィンドーを覗くとなんとホテルのロビーだった。メトロポールのパリだけれど、パリの街を闊歩するには有名な豪華ホテルよりもパリ・ルーヴル・オペラやカロン・ド・ボーマルシェのようにさりげなく個性あるプチホテルの方がずっと似合っているように思えるのだった。
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